江戸中期から明治末期にかけて、北前船の寄港地として栄えた兵庫県豊岡市竹野地域。日本海に面する山陰の港町だ。「竹野の大浜」と呼ばれた竹野浜一帯は、但馬の代表的な廻船業者が軒を連ねた。全国から産物が集まり賑わいを見せた町は今、観光業が地域の経済を支えている。 高度経済成長期のレジャーブームにより、漁業中心だった町も、民宿や旅館が建ち並ぶようになった。
「竹野」といえば、夏の海水浴。日本の渚100選にも選ばれている竹野浜は、京阪神を中心に毎年多くの観光客が訪れる。冬場は山陰の冬の味覚「松葉がに」が登場。町は紅色一色で賑わいをみせ、この二大看板が観光の大きな目玉である。
しかし、裏を返せば、夏と冬以外のオフシーズンに人を呼び込めるものがないことが、竹野の観光業にとって大きな課題であった。
「竹野のオフシーズンにどうやって人を呼び込むか」。旅行者の趣向やレジャーが多様化する今、地域の魅力を活かした新しい観光を提案する「たけのスタイル」の取り組みを追った。
集客に向けた試行錯誤
「どうしたら竹野に人が来てくれるのか」。たけのスタイルの中心的メンバーであり、竹野の観光拠点施設「北前館」の総支配人である世良純一さんは、当時をこう振り返る。
「最初の頃は人の目を引くイベントでお客さんを呼ぶことばかり考えていました。そのおかげで、北前館の入館者数も順調な伸びを見せていました。でも、その気持ちとは裏腹に不安は大きくなっていきましたね」
地元で旅行会社を経営する世良さんは、4年前に「北前館」の総支配人に抜擢された。観光客の誘致を目的に出石でオープンした旅行代理店の運営に関わっていたことが大きな理由だった。
旅行会社を始めた頃は、地域の観光について考えたことがなかったという。地元の旅行会社は外に連れ出すのが仕事であるからだ。そんな意識を変えたのは、旅行業者を対象に開かれたシンポジウムがきっかけだった。
「あなたは地域のために働いていますか? という講師が投げかけた言葉にハッとしました。地域を盛り上げようなんて考えたこともなかった。でも、地元のことを一番知ってるのは、地元の旅行会社なんだと気付かされました。それから、積極的に地域の観光を考えるようになったんです」。
旅行業で培ったノウハウを活かして、人の目を引くイベントを次々と企画。カジキマグロの解体ショーやクリスマスには芸能人を呼んでのモノマネショーと、奇抜なアイデアで人を呼び込んでいった。
しかし、イベントだけではいずれ飽きられてしまうという不安が心を占めるようになる。面白いイベントを開けば確かに人は来るが、それは一過性なものに過ぎない。イベントに魅力を感じても、竹野に魅力を感じてくれる人を創り出せていなかったのだ。これでは、本当の意味で「竹野ファン」とはいえない。
「北前館単体での集客に限界を感じていました。アイデアだっていつかは枯渇する。このままだと長続きしないと感じました。竹野の町全体を巻き込むしかないと考えたんです」と世良さんは語る。
ここに地域のありのままの魅力を伝える「たけのスタイル」の挑戦が始まった。
たけのスタイルの誕生
地域の魅力を旅行者に伝える。 竹野の魅力を伝えるにはまず、住んでいる人間が地域のことを知っていなければならない。 最初の活動は、地域資源の掘り起こしから始まった。竹野に今、何があるのかを知るため、観光協会や商工会、市、そして地域住民と協力して、魅力を探る日々が続いた。
遊園地といった大型レジャー施設のない町。はじめは本当に人を引きつけるものが見つかるのかと不安が募ったという。
「何にもないと思っていた町ですが、自然豊かな海、川、森、山がありました。ふだん当たり前だと思っていたものがかけがえのない資源だったのです。そこでは、地元の人が先人から引き継いだ知恵を活かして、生活の営みが行われていました。海では磯見漁や干物作り、川では鮎やカニかご漁、森や山では炭焼き、木地作り。これら竹野の特色に付加価値をつけて、旅行者に様々な体験を提供する。「これしかない」と誰もが思いましたね」と世良さん。
この体験型旅行を活かすため、ターゲットは修学旅行に定めた。修学旅行といえば、夏冬以外のオフシーズンに行われるのがほとんど。また、最近の修学旅行は、地域の自然にふれる環境学習型の旅行が増えていたこともあり、ニーズは絶対にあるとふんだ。これは旅行業の経験を活かしたアイデアだった。
こうして、平成20年2月、たけの観光協会長らが発起人となり、体験型環境旅行推進プロジェクト「たけのスタイル推進協議会」が発足した。「スタイル」とは、流儀の意味。「竹野らしさを発信する」という地域の思いが込められている。
Pages: 1 2