その年の祭りではじめて叩いた和太鼓が地域興しになるとは、そのとき思いもしなかった。
山本巌さんが舞鶴市字吉野地区に引っ越したのは、1981年のことである。子どもの頃から太鼓を叩くのが夢だった山本さんだが、その年は、偶然にも三年に一度の祭りの年だった。祭りでは太鼓を叩くと聞いて、二十歳を過ぎての体験に興奮した。
祭りまでの数ヶ月間。山本さんは、子どもたちにまじって、基本の太鼓を、地域の先輩から教わった。そして祭では、無事、勇壮な姿を披露することができた。
しかしその時、山本さんは思う。三年に一度では、打ち手となる子どもたちが、次の祭年までに太鼓から離れていく。これはとても残念だ。その思いが、山本さんを和太鼓に傾斜させていく。
「そうだ私が教えてみよう」
思い立って、同じ校区の子どもで、興味を持った6人に教えることからスタートした。
もっとテクニックと知識が必要だ
子どもの吸収力はすごい。地域の祭り太鼓を子どもたちに教えると、みるみる上達していく。でも、同じ演奏ばかりでは子どもは飽きてくる。それに対処するには、山本さんも、自ら新しい知識やテクニックを修得しなくてはいけない。
そう思って探しあてたのが、京都市下京区にある「太鼓センター」だった。平成5年から山本さんは、会社の仕事を終えると片道2時間ちかくかけて、毎週太鼓センターへ習いに通い始めた。
太鼓センターにはあらゆる和太鼓のプロが講師として教えに来ていた。そこには国内はもとよりアメリカ・カナダ・アフリカを初め12ヶ国で公演を行い、演奏のみならず作曲・構成・演出を手掛ける川原崎能弘先生や現在、名古屋のワールドミュージックとして和太鼓とマリンバとのアンサンブルという独特のスタイルで演奏を展開するGONNAのメンバー小林辰哉先生がいた。
山本さんはプロの演奏に魅了され、そのテクニックをどん欲に学んだ。それを地元に戻って子どもたちに教える。教える側が上達すると、子どもたちも以前に増して太鼓に興味を示しはじめる。こうして子どもたちから友達へと、メンバーは増えていった。
楽鼓結成
1997年、山本巌さんをリーダとする小学4年から中学3年までの和太鼓集団は「楽鼓(らっこ)」として結成され、西舞鶴丹波町にある「えびす神社の祭り」で和太鼓を披露し大好評を得た。
1998年、朝来市の田口神社祭り出演。1999年、この本だいすきの会主催、梅田俊作さん講演会エンディング出演。舞鶴市こども文化祭出演。2000年、あせく幼稚園竣工式オープニング。やすらぎ苑訪問。出雲神社祭(北吸)出演。朝来盆踊り大会出演。京都21幕開け事業出演。出演依頼は、年を追うごとに増えていった。
特に2001年からの活動は目をみはるものがある。この年、楽鼓の活動はぐんと広がりを見せ、ついには第1回舞鶴和太鼓フェスティバルが開催されるまでになった。この年を境に、韓国学生交流セッション乱打(ナンタ)、赤煉瓦フェステイバル引き揚げ友の会、東西夜の市、大連市老幹部代表団歓迎夕食会、田辺城まつり、長野県伊那市桜祭りなど、舞鶴の枠を超えて、全国各地の演奏会、あるいは地域外交流の機会にと、演奏する機会は増えている。
地域の伝統継承を楽しいと思わせる努力
こうして、地域の祭りという伝統継承から始まった太鼓が、日本各地で演奏する回数が増えていった。それに従い、メンバーは演奏先の地域の伝統芸能も学ぶ。子どもは興味のあることにはすぐに飛びつき、知識をあっというまに吸収する。地方へ赴き、当地の風を感じながら学んでゆく。
たとえば、日本三大祇園まつりのひとつである、福岡県小倉北区で行われる太鼓祭り「小倉祇園まつり」に、生徒をつれて行ったときのこと。地元の小倉祇園太鼓保存会の人たちから、小倉祇園太鼓を教わった。その太鼓の勇壮でテクニックの高さに、みな驚いた。そこで、興味を示したメンバーに、小倉祇園太鼓を教え始めた。もちろん、現地に赴くわけには行かないので、練習はビデオに釘付け。しかし、そうして映像を通して身近になったことで、翌年からは小倉祇園太鼓保存会とのつき合いが深くなる。そしてついに、保存会から小倉祇園まつりで太鼓を叩いてみないかと誘われる。その日、子どもたちは精一杯の演奏を見せた。保存会も驚くほどの腕前だったという。メンバーはどんどん上達していった。
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子供(小学四年生)が保育園でたたいていたこともあり、和太鼓に興味をもっています
舞鶴にある子供の和太鼓教室を探していて、楽鼓さんのことを知ったのですが、どこで活動されているのか、どこに問い合わせすればよいのかわからず、こちらにたどり着きました
活動内容などを知りたいのですが、教えていただけませんでしょうか?