定住促進への挑戦
自然文化村の開設から数年で、「北集落」を訪れる人々は急増した。自然文化村が、都市農村交流の拠点施設として機能し、入り込み客の受け皿となったのだ。年間入り込み客は47万人、その消費総額は8億2千万円に達した。
現在「美山町自然文化村」には、宿泊施設の「河鹿荘」、屋外施設の「オートキャンプ場」「テントサイト」「野球場・サッカー場」「全天候型ゲートボール場」「りんご園」「バラ園」が整備されている。これらの施設の礎も、小馬さんの働きかけによって築かれた。
小馬さんはまた、都市農村交流を一歩進め、第3セクターで「美山ふるさと株式会社」、「美山名水株式会社」を立ち上げ、黒字経営の中でUターン、Iターン者の定住促進や雇用の場の創出など、単なる観光地とは異なる、定住まで視野に入れた交流による村おこしにも取り組んだ。
しかし、実際に移住者が何人か出てくると、住民との間で摩擦が出てくる。やはり、新聞記事から引用しよう。
ところが、集落から、共同作業をまったくしない、と不満の声があふれた。移住者に事情を聞くと、「なぜ、しなきゃいけないの?」。この連中、田舎をなめとるな。小馬は、知り合いの森茂明(68)に頼んだ。「いっしょに田舎暮らしの掟をつくってもらえませんか」京都市内で釣り具店を営んでいた森は、渓流釣りで訪れた美山の風景にほれこみ、76年、かやぶき民家に越してきた。農業をしても、山仕事をしても、生活はカツカツ。さらに、集落の共同作業の忙しさといったら。消防団や青年団、みぞ掃除に草刈り・・・・。そんな日々の思いを小馬に語り、田舎暮らしの7カ条に結実させたのである。
ここで生まれた田舎暮らしの7カ条とは、次の内容である。
- 嫁さんに覚悟はあるか
- 集落に協力者はいるか
- 村の共同作業をいとわない
- プライバシーはないと思え
- 3年は我慢
- 農業だけではたべていけない
- 現金は必要だ
歓迎ばかりでない、厳しさを語ったところに、小馬さんが観光振興、そして定住促進にかけた本気度が偲ばれる。
エコツーリズムという新たなキーワード
美山町の町人口約5千人に対して、1985年に12万人であった年間入込客数は、1995年には41万人、2001年には54万人にまで拡大している。
一方で、1999年には農協の支所が3カ所廃止、2000年には高齢化率32%、人口は5,231人と美山町誕生時の半分となるなど、従来の村おこし組織の存続が危うくなった。リーダーの高齢化、世話役の兼任化、価値観の多様化により組織活動そのものも停滞を始めた。
そこで、今までの村おこし活動の成果をステップに「新たな美山町づくりを目指して生まれ変わりましょう」とする方針をつくりあげた。
それを担うことになったのが、小馬さんの後を次ぎ、自然文化村の支配人になった高御堂厚さんである。高御堂さんは、1993年に美山町へ移住して以来、自然文化村の運営に携わってきていた。
高御堂さんは、新たな美山町づくりのキーワードとして、エコツーリズムをビジネスにすることを提唱している。これは、高御堂さんが、アメリカでインタープリター(自然と人の仲介者)として活躍してきたという経歴とも関連するだろう。高御堂さんは、京都大学が環境保全を目的にした体系的な教育研究の場所として美山町に設置した「京都大学フィールド科学教育研究センター森林ステーション芦生研究林芦生の森」とも連携し、エコツーリズムを進めようとしている。
芦生の森は、4185.74haという広大な面積を有し、手つかずの自然が残る天然林の森だ。美山町自然文化村では研究センターと連携して、芦生の森ネイチャーガイド・ハイキングツアーや芦生の森でエコキャンプといった、一般市民を対象にした自然環境保全目的のエコツーリズムを作った。
高御堂さんがアメリカで学んだ、自然観察、自然体験などの活動を通じて、自然を保護する心を育て、自然にやさしい生活を促す活動。それを美山で実践しようと、自然が発するさまざまな言葉を聞くランを組み立てた。
生活が便利になり、価値観が多様化する今。しかし、私たち人間は自然との共生なくしては生きていけない。そのためにも環境教育は、これからもっともっと必要とされていくに違いない。実は、美山町が京都大学の学術研究の場となったのは、90年も前の話。それを、現代に活かそうとする、新しい挑戦。ここに、単なる景観保全地域にとどまらない、美山町の新しい挑戦がある。
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