美山町は京都府内の町村で一番大きい面積を持ち、ブナ、ナラなどの広葉樹林とスギの針葉樹林が面積の95%を占める山間の町である。三国岳、頭巾山、長老山など、8~900メ-トル級の連山に囲まれ、その山あいを縫うように、由良川の源流が町の中央部を流れている。
川に沿って建てられた民家のうちおよそ250棟は、昔ながらの茅葺き民家。特に美山町知井(北村)集落は茅葺き民家が多く残っており、自然景観と、茅葺き民家がうまく調和して、日本の農村の原風景とも言うべき風情を呈している。この集落は、平成5年12月、文化庁の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。この茅葺き民家の風景が美山町の大きな観光資源となって、年間多くの観光客が訪れるまでになった。
茅葺き民家集落が観光資源になるまでには、住民の意識改革があったからこそ。通常、旧い家屋は建て替えたいというのが住んでいる側の気持ちである。特に、若い世代が新居を構えるとなると、茅葺が選択されることはまずない。そうした気持ちを乗り越えてこそ、現在の美山町がある。
集落住民の結束で
山村の過疎化を加速させた、昭和40年代からの高度経済成長。美山町も例外ではなく、人口が半減した。地場産業である木材も、価格が低迷するなど事態は深刻化した。
基盤となる収入源を失いかけた美山町役場が取り組んだのは、そんなふるさとの再生だった。住民への意識調査や集落懇談会を粘り強く開催し、住み良いふるさとづくりの実施方針をまとめた。農林業振興を中心に、地域・集落の環境整備事業などを実施、多くの集落で多彩な集落営農の実践を目指した。
結果的に、この時期の取り組みが、集落住民の結束力を高めることになった。合言葉は、「田んぼは四角に心は円く」。四角い田んぼに象徴される耕地整理を、単なる土木事業と考えず、コミュニティの円環と結び付けたところに、妙味がある。現在にまで続く、住民が助け合って河原の茅を刈り取ったり、共同で茅葺き屋根を葺いたりといった作業。その土台に、この時期に育まれた、住民が互いに支え合う心があるといえる。
かやぶきの里は、現在50戸ほどの集落だ。そのうち38棟が、茅葺き屋根である。交流館、民俗資料館、民宿などもそのなかに含まれる。集落での茅葺の建築数は、 岐阜県白川村荻野、 福島県下郷町大内宿に次いで全国第3位。その他の伝統的技法による建築物群を含めた、歴史的景観の保存度への評価は高い。
カリスマ観光課長がいた
全国の市町村に対し、1988年(昭和63年)から1989年(平成元年)にかけて、地方交付税として一律1億円を支給するふるさと創生事業があった。
美山町も創生事業の知恵を出し合った結果、役場に「村おこし課」を設置して「村おこし事業」を展開することになった。そこで誕生したのが、1989年に開設した「美山町自然文化村」だ。このとき「美山町村おこし課長」さらに「美山町立自然文化村館長」の職に就いたのが、小馬勝美(こうまかつみ)さんである。
小馬さんは、産業振興課長や村おこし課長として、「美山町自然文化村」の計画や建設に重要な役割を果たすとともに、初代文化村館長として施設運営に携わった。
田舎の象徴でもある、茅葺を残そうという独特の活動。そこには、多くの苦難があった。残念ながら、その苦労話を聞くことはかなわなかった。2010年4月13日、小馬さんは、多くの人から惜しまれながら亡くなった。小馬さんの苦労を偲ばせる新聞記事があるので、ここに紹介しよう。
「誇りをもてる日本一の田舎づくりをしよう」。昔話にでてくるようなかやぶき民家でまちおこしだ、とひらめく。さっそく集落で呼びかけた。貴重な財産です。みんなで残しましょう。
すごい反発だった。「貧乏の象徴を残せ、というんか」。有志と一軒一軒、説得に歩く。18年がかりで、全50戸の同意をとりつけた。
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