福知山中心市街地の概要
京都府福知山市。ひと頃までは、北近畿の中心地として賑わいを見せてきた町である。近隣の市町に住む一定年齢以上の人たちにとって、「ふくちに行く」と言えば、ちょっとした都会に遊びに出かける感覚だった。その年代の人にはおそらく、駅前に並び立つ商業ビル「さとう」「ファミリー」に出かけ、買い物をした思い出が残っていることだろう。都市部でいえば百貨店に遊びに行くようなものである。
駅前からしばらく中央通りを歩けば、「御霊神社」に行き当たる。周辺は映画館もある歓楽街だ。御霊神社から右手に折れ、由良川に向けて続くのが、広小路商店街。福知山踊りの季節には、踊りの輪でにぎわう通りだ。駅からこのあたりにかけてが福知山の中心市街地で、一帯に、駅前通り、駅正面通り、アオイ通り三丁目、アオイ通り、新町、内記新町などの商店街が縦横に連なっている。
しかし近年では、モータリゼーションの進展に伴い、福知山の商業的な中心は、駅の南側を走る国道9号線沿いに移っている。ファーストフードや大型衣料品店、CDショップ、ファミリーレストランなどが軒を並べ、週末ともなれば家族連れでにぎわっている。おそらく今の世代にとって「ふくちに行く」といえば、こうした郊外型の店舗に行くことを意味している。その結果、かつては人通りが絶えなかった中心市街地から人影が消え、今ではシャッターの目立つ、寂しい雰囲気が漂っている。
一方、駅を左下隅に置き、右下隅に福知山城を、そして先ほどの御霊神社を中心に、胴短のたけのこのような形を描けば、商業的な町とは違う福知山の姿が見えてくる。それは、明智光秀の治める福知山城のもとで栄えた、城下町としての姿だ。紺屋町、鍛冶町、呉服町などの町名が往時を偲ばせる。福知山は、新しいものと旧いものが共存する町なのだ。
もっとも、城下町としての風景も、たび重なる由良川の氾濫による水害や近代化に伴う開発によって、昔日の面影を探すのは難しい。それでも、街のたたずまいをゆっくりと見渡せば、思わぬところに昔の名残がある。それは立派な武家屋敷でも貴重な美術品でもないかもしれない、しかし、福知山城下14町の町衆によって支えられてきた、暮らしの宝ものだ。道端の石碑、ベンガラ塗りの赤い柱、白壁にうだつ。それぞれに往時の物語があり、遠い昔に思いを馳せることができる。
設立の経緯
そんな「お宝」を秘蔵するのではなく、掘り起し、市民の目に入るようにしたい。町衆が伝えてきた「お宝」を知ることを通じて自分の街のすばらしさを再確認し、住まう楽しみを盛り上げたい。そして可能なら、街に往時のにぎわいをとりもどせないか。そんな思いを持ったメンバーが集まって、1999年(平成11年)7月に結成されたのが、「城下町を考える会」だ。
設立のきっかけは、福知山市などの職員がボランティアで行っていた「街角探検隊」だった。この活動は、町歩きなどを通して福知山市の街なかの魅力を発掘しようと始まったもので、その成果を元に、街ぐるみ博物館や街ぐるみ植物園構想などを提案、何気ない街の魅力の活用に取り組んでいた。探検隊の活動は市民からも好評で、活動のたび、多くの市民が参加してくれるようになった。
そんな様子を見て、そろそろ職員主導から市民主導に移行してはどうかという意見が会員の間から出された。活動を民間に浸透させたいと考えていたメンバーに異存はない。その中心を担ってもらうべく白羽の矢が立ったのが、大谷勇さんだった。当時大谷さんは、京都府の職員として福知山の商工振興に携わっていた。大谷さんがまもなく定年を迎えることを聞きつけた街角探検隊のメンバーが、大谷さんに、定年後は一市民の立場として街角探検隊を支えてくれないかと相談したのだ。
大谷さんは依頼を引き受ける。「元来、のせられやすい性格で」と笑うが、心の底では、愛する福知山市の役に立ちたいという義侠心があったことだろう。こうして大谷さんを世話人代表に設立されたのが、「城下町を考える会」である。街角探検隊という、ある意味では公的な立場の人たちから依頼されての設立ではあったが、大谷さんは、新しい会を発足するにあたって、地域内の各種団体に出役を依頼することはしなかった。心がけたのは、福知山を愛し、そのために力を発揮したいと考える有志の人を募ることである。思いに応えて集まったのは21人のメンバー。デザイナーあり、ITに詳しい人材あり、文章力の高い人あり、営業が得意な人ありと、多彩な人材が揃った。
街なか博物館への挑戦
城下町を考える会の活動は、福知山の中心市街地(旧城下町)周辺にある町家や、有形・無形の歴史的・文化的資源を活かし、まちづくりを推進することである。
その活動には、アイデアにあふれたものが多い。たとえば、設立初年度から取り組んだ「ふくちのお宝展」。市街にある一軒一軒の家や商店それぞれを「博物館」と見立て、街めぐりを楽しむイベントだ。コーディネーターに京都文教短大の小林大祐氏を迎え、城下町の往時をしのばせる町並や社寺、各商店や民家に残された古道具やコレクションなど貴重なもの、話題性のある固有の資源を掘り起こした。
お宝展に伴って2000部発行されたガイドマップを見ると、時計店は古時計を、製菓店は菓子製造道具を、写真館が戦前のカメラをと、それぞれの商店・個人が知恵と工夫を凝らした展示を競っている。訪問客は地図を片手に、のぼりが立つ博物館を見て回る仕掛けだ。よくぞここまで街なかをまとめたと驚かされる。
しかし、はじめからすんなりとまとまったわけではない。「なんで市民がやるのか。市役所がやるものではないのか?」と聞き返されることも一度限りではなかった。城下町を考える会は有志の会である。会員の年会費2000円だけでは活動をまかなえず、「ふくちのお宝展」開催にあたっては、各出展者から1000円の運営費を頂戴することにした。博物館として協力するだけではなく、運営費まで拠出する。考えてみれば、これはよほどの理解がないとできないことだ。町内に参加募集のチラシをまくだけで出展者が集まるものではなく、書類を送付した上で、一軒一軒訪問して協力をお願いして回った。一度ならず足を運んだところもある。
予想外のハプニングもあった。「ふくちのお宝展」の会期は、おおよそ一週間。ユニークなイベントということもあって、テレビに取り上げられ、約3000人が来福される年もあった。ところが、いざ福知山に来てみると、多くの店が閉まっていて「お宝」を見ることができないという苦情が、お客様から寄せられた。というのは、「コンビニ社会」に慣れた現代人には想像しづらいが、かつての商店は日曜休みが普通だった。お宝展でも、日曜は休みにしている「博物館」が少なくない。一方で、来訪される側はどうしても週末が中心。そんなずれから生まれた苦情だった。
こうして苦労を重ねながら続けた「ふくちのお宝展」。そのかいあって「お宝」という言葉も街なかで定着、「言うてもろたら協力するで」と楽しそうに申し出てくれる人もあるなど、大谷さんは一定の手ごたえを感じるようになった。
一方で、限界も感じていた。それは、ひとつは、公開できる「お宝」は限られており、「博物館」側から「毎年同じものを出していても」という遠慮が出るようになったこと。お客さんにとっても新鮮味がないのではないかと、危惧もした。さらに、「お宝」を展示するには店番がいる。これは、高齢者であることが多い商店にとって、負担感があった。こうして、一時はおよそ140軒が参加する規模に成長した「ふくちのお宝展」も、6回目となった2004年には、参加72館まで減っていた。
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